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その4 図録内容の充実と図版掲載に工夫を! [大琳派展]

  「尾形光琳生誕350周年記念」と銘打った今回の『大琳派展』の図録は、外観はなるほどその名に恥じない立派さです。図版はオールカラーで、文章頁もいれて380頁をこえています。紙質を検討し、頁数の割には厚く重くならないように心がけたそうです。
  私の手元に、1972年東京国立博物館が「創立百年記念特別展」として開催した『琳派』展の図録があります。B5判で全266頁。うち図版頁は207頁です。カラー印刷は巻頭の16頁だけです。「定価600円」と奥付に印刷されています。

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写真左:創立百年記念特別展『琳派』図録 (1972年 東京国立博物館編集)
写真右:『大琳派展-継承と変奏-』図録 (2008年 東京国立博物館・読売新聞社編集)


  ちなみにこの36年前の展覧会での出品点数は305点で、今回の241点よりかなり多いものでした。今回の『大琳派展』では、とくに俵屋宗達作とされる屏風絵の出展が少ないことに不満を感じた来館者も多いのではと思いますが、36年前の『琳派』展では、『風神雷神図屏風』のほかに、屏風だけで『関屋澪標図屏風』(静嘉堂文庫美術館蔵)、『舞楽図屏風』『扇面散屏風』(ともに醍醐寺蔵)、『蔦の細道図屏風』(相国寺蔵)、それに『松図襖』(六面。養源院蔵)や『芦鴨図衝立』(醍醐寺蔵)など、いわゆる“伝宗達”のものも含め出品されていました。この特別展で、はじめて宗達-光琳派の代表作とまとめて対面できたのは忘れられない体験でした。
  最近では東京国立博物館といえども、国内外の美術館や寺社・所蔵者から作品を借り入れるのがなかなか難しくなっているようです。やはり準備・交渉の期間を充分確保できないのも影響しているのではないでしょうか。それと8月中旬まで開催されていた『対決 巨匠たちの日本美術展』(東京国立博物館・平成館)に、宗達のいくつかの屏風が出展されたのも関係しているとのことです。
  ところで本記事のタイトルに、「図録内容の充実を」と書きましたが、本展図録では、カラー図版の頁に比べ文章頁はその3割の80頁です(出品目録などを除けば、70頁ほどにすぎません)。作品解説は出展作ごとにすべて書かれていますが、250~450字の短いものです。会場では作品の横に、図録の文章の要点を抜粋した100字ほどの解説が掲げられていますので、これを読みながら作品をみた人が、帰宅してから鑑賞を深めようと、改めてじっくり読み直すようなものとは云えないでしょう。解説文を執筆した東博の学芸員にとっても、このようなきびしい字数制限のもとでは、自らの見解を含め言及したいことの一部しか触れられず、欲求不満も残ったでしょう。解説頁のレイアウトを改め、文字のポイントを小さくしてでも、少なくともこの倍くらいの字数の解説にすべきだったと思います。

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『琳派』図録から(36~37頁) 宗達作『関屋澪標図屏風』


  時期を同じくして、同じ上野公園内の東京都美術館で、『フェルメールとデルフトの画家展』が開催されています。7点ものフェルメール作品が並ぶということで評判も高く、かなりの混雑ぶりでした。この展覧会の図録は『大琳派展』の図録と比べ、圧倒的に内容の充実したものでした。
  欧米の大規模な美術展では、意欲的な研究論文ならびに詳細な作品解説を掲載した本格的な図録が刊行されることが多く、担当者もその図録が以後の研究にとって重要な文献となるようにとの意気込みで取り組んでいるそうです。こういう欧米の図録づくりにもとづいたこの『フェルメールとデルフトの画家展』図録でも、美術史家ピーター・C・サットンの「フェルメールとデルフト・スタイル」という長大な論文の翻訳(400字づめで300枚をこえる。ただし本展のための書き下ろしではない)が掲載されています。個々の作品解説は、オランダのデルフトを中心に活動したマイナーな画家の小品でも短くて2500字ほどで、その作品のテーマ・図像学的解釈・画風等の影響関係など、研究史に触れながらかなり詳しく論じられています。
  もちろん日本美術の展覧会図録に同様の学問的厳密さ、詳しさを要求するつもりはありませんが、それにしてもたまたま同時期に、しかも目と鼻の先で開かれている『フェルメールとデルフトの画家展』と比べてみて、まことに歴然たる図録内容の差を痛感させられました。

  つぎに今回の『大琳派展』図録の内容に関して、別の観点からの不満を述べさせてもらいます。ひとつは、日本絵画史上とりわけ独創的な表現世界を切りひらき、いわゆる日本的美意識の典型を造形化させた宗達-光琳派の36年ぶりの大規模な展覧会なのですから、この間を中心として近代の宗達-光琳派研究史を詳しくまとめた論文が掲載されて然るべきだったと考えています。
  もうひとつは、研究史が掲載されていないこととつながりますが、近代の宗達-光琳派研究にかかわる参考文献がまったく挙げられていない点です。各作品の解説は短くまとめざるを得ないのでしたら、その作品について言及した文献は学術論文を中心に、すべて紹介するぐらいの姿勢がほしいものです。いちいち作品ごとに列挙しなくても、詳細な「参考文献目録」(ゆうに千件を超すでしょう)に通し番号をつけ、作品解説の末尾にその番号を示せばスペースを減らすことが出来る筈です。
  実際のところ、前近代の日本美術の展覧会図録では、「参考文献目録」が軽んじられている傾向がみえます。それに対し近代日本の美術家の図録では、展覧会企画者の「文献目録」への意識がつよく、掲載されているものをかなり見かけます。手元にあるものをいくつか拾い出しても、『生誕100年 靉光展』(2007年。東京国立近代美術館ほか)、『藤田嗣治展』(2006年。同館ほか)、『小林古径展』(2005年。同館ほか)、『歿後60年 長谷川利行展』(2000年。神奈川県立近代美術館ほか)など、どれも実に詳細な、新聞記事にまで及ぶ「参考文献目録」が掲載されています。
  なおこのほかに、『大琳派展』図録では出品作の落款・印章をすべて原寸で示してほしかったと思います。
  いくつもの不満を書き連ねましたが、とくに大規模で重要な展覧会の図録は、学問的関心にも応じられるだけの内容を兼ね備えていることが重要ではないでしょうか。

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  近年、美術展図録は見た目にはずいぶん立派になっています。ほとんどが出展作をオールカラーで掲載していて、しかも重要作品・注目作品などは見開きで大きくとりあげられてもいます。しかし従来通りのソフトカバーの並装(本の背に接着剤を塗布して表紙を貼り付けたもの)ですので、両頁にわたる作品図版を平らにひろげてみることはできません。綴じ合わせたところから左右に大きく紙面が盛りあがるからです。ハート形の上端部のようにです。無理に押さえて平らにしようとすると、綴じ合わせ部分が割れてきてしまいます。
  この『大琳派展』の図録では、全部で273頁のカラーページのうち3割にあたる82頁が、見開きで1作品の紹介となっています。(一ヶ所だけ見開きで2作品をとりあげています。)宗達-光琳派の美術展ですからとくに屏風が多く、32作品が左右2頁にまたがって掲載されており、ほかに巻物(和歌巻・図巻など)が4点、短冊帖1点が同様の扱いとなっています。(出展屏風のうち1頁で掲載されているのは、当然のことですが、二曲一隻屏風全10点。ほかは六曲一双と六曲一隻がともに1点です。)
  横長の屏風を大判のカラー写真でみることが出来るのは有難いことですが、このような製本ではまともな作品紹介とはいえず、鑑賞上いちじるしい障害となっています。美術展の図録でも多くはほぼ1頁1作品の掲載ですみ、必要なら折り込みで横長の作品の図版を何枚かはさめばよいでしょうから、上記の製本でとくに問題はありません。現に美術展図録と云えば、ほとんどがこの並製本です。しかし図版頁の3割がこのような見開き状態での屏風作品の掲載となれば、「まあ我慢して下さい」ではすまされません。横に長い屏風や絵巻物・図巻などを主とした美術展の場合、図録の造本にあらたな工夫を加えるぐらいの柔軟な取り組みがあって然るべきです。
  図録としては異例ですが、たとえば横長の変型判にして、屏風は基本的に1頁に一隻掲載する方式は考えられないでしょうか。『長澤蘆雪展』(2000年。千葉市美術館ほか)の図録はやや横長で、このような工夫もみられました。この場合、掛軸などの図版は小さくなりますが、致し方ないと思います。あるいは例外的に本装本にして、開きやすさを実現すべきでしょう。手元にある図録では、『ニューヨーク・バーク・コレクション展』(2005~6年。東京都美術館ほか)のものが本装本でした。また『雪村展』(2002年。千葉市美術館ほか)の図録では、見開きがより平らに近くなるようにでしょう、少し大きめの厚表紙に別装の本体をはさみ、裏表紙の見返しと別装の本体の裏表紙を貼り合わせただけの製本となっています。これもなかなかユニークな装本にみえました。
  要するに発行部数が多く、製本期間も長くはとりにくく、なによりも安価な製本という要請から、こういう図録づくりがなお続いているのだろうと推測はつきますが、カラーページをいくらか削ってでも、より望ましい図録づくりを是非とも目指してほしいものです。
2008.11.11 さいとうたかし

その3 酒井抱一作『月に秋草図屏風』について……そのユニークな空間構成 [大琳派展]

  『大琳派展-継承と変奏-』に寄せて[その2]では、『大琳派展』での酒井抱一作『夏秋草図屏風』の展示の仕方に疑問を呈しました。そして当屏風との関係で、この『月に秋草図屏風』について触れました。抱一にとって両作品には濃厚なつながりがあり、『夏秋草図屏風』を描き切ったからこそ、『月に秋草図屏風』に取り組むことができたのだろうと、かなり主観的な推測を述べました。

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〈酒井抱一『月に秋草図屏風』  ペンタックス株式会社蔵〉


  この『月に秋草図屏風』(六曲一隻。縦139.5cm、横307.2cm。ペンタックス株式会社蔵)には、青味がかった(酸化により変色)銀色の満月が、右から第三面の上部に大きく描かれています。その月は、横V字型に斜め上へと伸びあがり、あるいは右手前へとせり出す葛の葉むらに、ゆったりと半ば囲まれるように浮かんでいます。この満月は中天近くにかかっているのではなく、描かれてはいませんが、地平線を出て昇りだしたところです。秋の夕刻でしょう。今回の『大琳派展』にも出品されている同じ抱一の『秋草鶉図屏風』(二曲一隻。山種美術館蔵)の月の位置に近いと思われます。
  この『月に秋草図屏風』では、屏風の下部およそ三分の一は俯瞰のアングルで捉えられています。秋草の群の生えぎわあたりの描き方から云っても、右手前へ斜めに伸び広がる葛の葉の描き方から云っても、見おろしている画家の視角は明瞭でしょう。画家抱一の眼の高さは屏風の上端から三分の一、ほぼ満月の下辺あたりでしょうか。
  本屏風における月の高さについて触れたのは、本展図録の『月に秋草図屏風』の解説に(作品横の解説文も同じ)、「丸い銀の月に葛の葉の先端が触れて、地面から月を仰ぎみるような視点が与えられている」とあるからです。解説者は、満月に上へと伸びた葛の葉の一枚が触れているようにみていますが、月は画家の眼の高さほどで、「地面から月を仰ぎみるような視点」などというみかたをすることはないのです。そのような「視点が与えられている」とは云えないでしょう。畳に本屏風を立て、その横に寝ころがってでもみれば、そういうみえ方に近くなるでしょうが、座るかさらに立ってみれば(立てば眼の位置は屏風上端をこえるほどです)、仰視のアングルで描かれているのではないことは明らかでしょう。当ブログの[その1]でも述べたように、屏風を展覧会場に立てて展示する場合、その高さが重要なことが分ると思います。

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  この『月に秋草図屏風』は水墨の濃淡表現を巧みに駆使し、一部に「たらしこみ」の技法も用いて、上へと伸び横へと広がる葛の大きな葉むらを、自在でしかも繊細な筆遣いで描き出しています。またしなやかに伸びる葛の蔓の、生気が脈打っているような表現も見事なものです。
  緑青・群青のほか赤や白も草花の描写に効果的に用いられていますが、全体に色彩表現はかなり抑制されています。そして金地に描かれた濃淡の水墨の変化によって、下地の金がうすい墨色の葛の葉ではすけて見え、葉うらにあたっている月明かりをたくみに感じさせます。秋草は葛のほかに、女郎花・桔梗・薄・藤袴など多くは低く、葛のまわりに身を寄せるように優しく描かれています。瀟洒で情感のこもった画面からは、ゆたかな空間の広がりが伝わってきます。
  では、この『月に秋草図屏風』の構成上の基点はどのあたりにあるのでしょうか。それは左下の秋草の生えぎわ、六曲屏風の左二曲が奥に折れるところに据えられています。ここが屏風中でみおろした視界のいちばん遠くになるように描かれています。
  酒井抱一は、すでに触れたように、屏風上端から三分の一ほどに眼の高さをほぼ固定し、俯瞰でとらえた草花の生えぎわから上へと、映画のパンの手法のように視角を移し、斜め上へ伸びる葛の葉むらを間近な水平視からさらにいくらかの仰視で捉えているようにみえます。抱一がこのような視覚の方法に充分に自覚的だったとは思えませんが、固定した視点から画家の眼が対象をなぞるように捉えた視界の移動を、この屏風に向かう者もとくに意識することなく、同じようにたどって眺めているような気にもさせられます。そしてこのような複数のアングルをとりこんで構成したとも云えるこの屏風画面からは、独特な空間の存在感・遠近感が伝わってきます。
  もともと金地や銀地そのままの屏風や襖絵では、そこに描かれた景物は背後の空間に位置を占められず、空間での実在感は拒絶されています。花鳥画の場合、景物の上下の配置、大小の描き分け、濃淡の差などによって、画面に奥行き感を導入できますが、このようにひとむらの草花の下部の密集と、その先の枝ぶりと葉むらだけから、まわりの金地へと広がる三次元空間の実在感をこれほどに表現できたのは、抱一の大きな手柄と云っていいでしょう。(なお、この屏風絵は同じ抱一の著名な『夏秋草図屏風』が、銀地に草花の群れを横に並べて空間性を抑えるように表現しているのに対し、構成上いちじるしい対照性をみせています。)
  このようにみてくると、酒井抱一がこの総金地の『月に秋草図屏風』で達成したような表現世界は、どのような影響関係のもとにあるのかということが気になります。近世後期画壇の百花繚乱のなかで、円山派や沈南蘋の流派、また抱一が親しかった谷文晁(1763~1840)らからの影響よりもとくに注目すべきなのが、抱一より9歳年上の呉春(松村月渓。1752~1811。四条派の祖)の存在ではなかったでしょうか。京都の四条派からの影響はむろんすでに指摘されています。円山応挙(1733~1795)から学んだ写生画の手法をもとり入れて呉春が達成させた、柔軟な筆致による洒脱で情感ゆたかな絵画世界。そういう呉春に注目して抱一が彼から摂取したものの反映を、この作品に指摘できるのではないかと思います。

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  ところで宗達-光琳派では、横長の屏風の場合とくに顕著ですが、対象を捉える画家の視点は移動し、それぞれの草花の群を基本的には正面から描いています。もちろん屏風全体に及ぶ構成意識には作品により強弱が認められますが、草花が正面観で、もっとも美しい姿・かたちで捉えられ併置されているような画面空間は、装飾的な印象をつよめています。抱一の当屏風とは、今まで述べてきたようにずいぶん違います。また俯瞰的な、あるいは仰視的な表現は、宗達-光琳派の屏風作品にもみられます。しかし抱一のこの屏風のように、視点の位置はほぼ定めたうえでの俯瞰からいくらかの仰視までのアングルの併存は珍しいのではないでしょうか。
  この『月に秋草図屏風』での草花の布置は、云うまでもなく透視画法にもとづいた合理的な空間設定によっているわけではありません。草花の群の生えぎわとその先に大きく広がり伸びる葛の蔓葉とのつながりにも、空間的に奇妙なゆがみや曖昧さが感じられもします。右上方への葛も空間の奥へ伸びているのか手前なのか必ずしも分明ではありませんし、斜め右下への葛も画面下からの別の葛の葉と一部で重なっているような描き方になっています。(余談ですが、あたかも二枚の羽根をもった巨大な種子が宙に浮んでいるようにみえてきたりはしませんか。)
  本屏風があたえるこのような不思議な感覚、すなわち三次元的に捉えられたこの屏風空間がみせる現実感と非現実感の奇妙な共存も、この作品の魅力のひとつと云えるでしょう。しかし、これも平面に広げた図版などと、六曲で立てた実作とでは、たとえばこの横V字型の葛の蔓葉の広がりがあたえる視角像にかなり異なった印象を受けます。実際の屏風では、非現実的などと云ってもそこは微妙で、よりこまやかによりたおやかに組みたてられた空間構成があらわれてきます。
  なお付け足しますと、あまり目立たないながら構成上興味を引かれるのが、右から第四面に画面外から斜めに伸びあがる細い薄と藤袴です。これは左の大きな秋草の一群に呼応しつつ画面に律動感をさそい、屏風右端まで伸びる手前の葛と直交しつつ視覚的にはこれを支え、画面に平衡感をあたえる役割をさりげなく果たしています。
  とにかくこの六曲一隻の屏風には、空間把握や画面構成上のいくつかの工夫や趣向が窺えます。琳派様式というワクもはずし、総金地の草花図屏風として本作品をみれば、江戸時代後期の絵画のなかでも空間表現のユニークさでは、注目すべき秀作のひとつと評価すべきだと思います。

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  画家の眼の高さはほぼそのままで、視角をかなり移動させて、間近の対象を捉えるという描き方が同じように窺われる作品は、宗達や尾形光琳にも見当らないようです。すでに触れたように、抱一自身、この映画のパンの手法にも通じるような空間把握に意図的だったとは思えません。たぶん眼前の草花をスケッチしているなかで、このような独特なアングルに引きつけられ、屏風上に展開させてみようと、画面構成を試みた結果でしょう。
  ところで上述のような視角では、とくに横長の屏風の場合、対象空間が上下間で圧縮されて取りこまれているような印象を与えがちですが、この屏風ではそういうことはありません。それはひとつには、秋草の生えぎわへの奥行きを感じさせる描き方、そして上下両方へ動勢をみせながら伸びる葛がともに屏風画面を突きぬけて描かれていること、また横V字型に伸びている葛の蔓や葉の右方へ、満月を包みこみながら金地の空間が大きく広がっていることなどによるのでしょう。
  なおこれとはかなり異質ですが、空間表現の特異さで思い浮かぶのが、酒井抱一より250年ほど前、東北南部から関東で活躍した水墨画家雪村(雪村周継。1500頃~1580頃)です。雪村の山水屏風や花鳥屏風のなかには、対象空間をゆがめ圧縮して、無理やり画面に押しこめたような、ちょっと超現実的な相貌をみせるものがあります。むろん抱一のこの屏風とは直接つながりませんし、抱一が影響を受けているともいえないでしょうが。ともかく抱一のこの金地屏風は、遠近法的な視角に独特な虚構性が感じられる一方で、合理的な空間把握への志向もたしかに認められます。(なお、酒井抱一が私淑した尾形光琳が雪村にとくべつの関心を示し、雪村作品を所蔵し、模写も試みているという興味深い事実も知られています。)
  調べも不十分で、印象めいたことを気軽に書いてしまったという気分ですが、この『月に秋草図屏風』は、抱一作としては奥深い魅力にとんだ出色の作品ですので、ながい文章になってしまいました。

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  ところが、この『月に秋草図屏風』はたしかに酒井抱一の真作なのかという疑問が、一部の研究者から出されているのです。彼の作品中、群を抜いた秀作と評価され、酒井抱一作として「重要文化財」にも指定されている当作品にとって大きな問題提起です。私としても、これまで『月に秋草図屏風』を抱一の代表作であり、むろん真作という前提で書いてきましたので、いくらかでも言及せざるを得ません。
  ここで“真作”というのは、100%ではないにしても作品中の主要部はもちろんのこと、全体的にもほぼ抱一が手がけたものということで、抱一の数多い弟子の誰かが(複数の場合もあったでしょう)おもに描いて、そこに抱一の署名・印章を付したものではないということです。判断を難しくさせているのは、多くの注文に応えるためにも、とくに抱一の晩年にはそういう作品が相当につくられたらしいからです。しかも抱一の高弟鈴木其一(1796~1858)が師の代筆を引きうけていたことが分る資料まで知られるようになり、この問題をいっそう複雑にさせています。
  真作とたしかに断定できるのかとの疑念を早くに示したのは、琳派とくに酒井抱一研究家として著名な玉蟲敏子氏のようです。氏は断言されている訳ではありませんが、1997年刊の『酒井抱一』(新潮日本美術文庫18)の『月に秋草図屏風』解説で、「右上方へあるいは下方へと広がりゆく葛の茎の動きが抱一としてはダイナミックにすぎる」とし、なお署名の書風や印章も問題視したうえで、「制作背景に関してはなお検討が必要な作品でもある」と慎重なコメントをしています。(その後の氏の著作では、この問題への言及はないようです。)
  この『月に秋草図屏風』の署名は「雨華葊抱一筆」(「葊」は「菴」、すなわち「庵」)です。他の抱一作品のいくつもの款記と比べて、やや書体に書き癖を強調しているような作意がみえると云われればそのようにもみえますが、異筆とは決めつけ難いと思います。それと印章ふたつのうち、「文詮」の朱文瓢印の押印例は少ないようで、たとえば京都国立博物館蔵の『四季花鳥図屏風』(二曲一双)のものと同印かどうかも、はっきりしないようです。
  玉蟲氏は同書中の図版に、満月を「取り巻くように、L字型」に葛の蔓が伸びながら大きな葉を広げている部分写真を掲載して、抱一としては「ダイナミックにすぎる」という感じを分かりやすく伝えようとしています。
  たしかに葛の長く伸びた蔓の表現は、しなやかで強靭な手ざわりを実感させるほどです。ためらいなど微塵もなく、一気に引いた運筆には気迫さえこもっているようです。しかもこの蔓には水墨で微妙な濃淡を描き出して、月明かりの反映や蔓の重なりの遠近感も表現しています。
  葛の長く伸びる蔓は、当ブログ[その2]で取り上げた『夏秋草図屏風』左隻でも大きく描かれています。こちらは下絵で推敲し、試行を重ねてつくりあげた決定的なかたちを本絵に写し、息をつめるようにして線を引き色を塗って仕上げた完成作として、抜群の構成力と理想美をみせています。それに対し、この『月に秋草図屏風』では、眼前の秋草の群生を前にしての抱一の感興が息づいていて、いきなり本画にとりかかったような、即興性と豊饒な生気が伝わってきます。前者が古典的なのに対し、こちらはバロック的です。
  この葛の蔓の精気のこもった生き生きとした表現は、酒井抱一の他の作品には見出すことが困難なほどのものです。むしろ前述した鈴木其一の作品に似た傾向のものがあるようです。(たとえば『月に葛図』一幅、個人蔵、本展出品番号Ⅳ-62。『秋草図屏風』二曲一隻、出光美術館蔵、『琳派』〈紫紅社刊〉第2巻212図。)しかし葛の蔓や葉の水墨を主としたあざやかな描き方ばかりでなく、屏風全体のまことにユニークな表現世界から、別の画家を具体的に名指しするのはやはり容易ではないと思われます。
  当ブログ[その2」で私が想像したように、『夏秋草図屏風』の完成後、60歳になっていた抱一が、この作画への集中で体験したつよい緊張感から解放され、あらたな屏風制作へ踏み出そうとする意欲が、この『月に秋草図屏風』に向わせた原動力になっているとしたら、たとえ類例は残っていないにしろ、この葛の蔓葉が画面に展開しているダイナミズムが、当代画壇の様々な画法を幅広く学び摂取していた酒井抱一の表現力の限界を、あきらかに超えていたものとは云えないでしょう。とくにこの屏風には、すでに強調したように、対象への新鮮な心のうごきをも表現に反映させる、抱一としては珍しくすなおなまなざしが顕著ですから、そのことも軽妙で奔放な、ときに繊細な運筆を自在に試みさせて、この傑作を結実させえた大きな要因になったのだと思います。

  酒井抱一は、その画風の様式的展開をたどることが困難な画家ですが、それはそれとして、研ぎすまされた感性に支えられて、稀にずいぶん純粋で、ある面尖鋭とも云えるような表現を、ほとんど奇跡的に達成してみせることがありました。まさに『夏秋草図屏風』がそうであったようにです。直後ではないにしても、それほど時間をおかず描かれたと推測されるこの『月に秋草図屏風』も、数少ないそういう作品だと考えたいのです。
  ということは、酒井抱一には現代の私たちの眼からみて、似たり寄ったりの ―― きれいで上品で、いくらかの趣向もうかがわれるとはいえ ―― さして魅力を感じさせない作品が多いということでもあります。そういう意味では、今回の『大琳派展』には、抱一の画作は残っているものがずいぶん多いからでもありましょうが、並べすぎではないかと思いました。むしろ、抱一の江戸琳派最大の継承者となった鈴木其一の意欲作をあと何点か展示して(たとえばメトロポリタン美術館蔵の大作『朝顔図屏風』など)、其一の画業をいっそう顕彰してほしかったと思います。
2008.11.5 さいとうたかし

その2 酒井抱一作『夏秋草図屏風』の展示方法への疑問・・・忘れてはいけない! 「屏風の“裏絵”」という大前提を [大琳派展]

  今回の『大琳派展』の会場で、来館者につよい印象をあたえて、とくに人気のある作品のひとつが、酒井抱一(1761~1828)の『夏秋草図屏風』(二曲一双。各縦164.5cm、横181.8cm。東京国立博物館蔵)です。目立った人垣ができるほどで、長時間見入っている若い男女もみかけました。

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〈酒井抱一作『夏秋草図屏風』/参考:サルヴァスタイル美術館〉


 右隻(向って右)では、突然の雷雨に打たれながら寄りそうように耐えている夏の野の草花、左隻では、吹きすさぶ野分に翻弄されて千切れとばされそうな秋の野の草花が、しなやかで精妙な筆致と、銀地とのとり合わせを熟慮した配色で描き出されています。二曲一双の画面の中央に広いV字型の空間を大胆に設定し、対角線状に武蔵野(?)の一角を切りとる画面構成。卓抜な写実の手腕を発揮しながら、のびやかに草花をとらえる鋭敏な形態感覚。さらに右隻右上の、画面に遠近感をも引き入れている“にわたずみ”―突然の雷雨で生じた―の形態と賦彩、その上に金泥で細やかに引かれた水の流れの表現にいたるまで、非の打ちどころのない酒井抱一畢生の傑作です。
  ところで、たとえば右隻では雨あしも描かれていないのに、「突然の雷雨に打たれながら」などという指摘がどうして可能なのでしょうか。実はこの屏風、よく知られているように、尾形光琳(1658~1716)の『風神雷神図屏風』の裏面に描かれています。徳川将軍家の一族でいわゆる御三卿のひとり、一橋治済〈はるさだ〉の所蔵品であったと思われる上記の屏風に、大譜代大名で姫路城主の酒井忠以〈たださね〉の次弟抱一が依頼を受けて描いたものです。ですから風神図(右隻)の裏に秋草図(左隻)を、雷神図(左隻)の裏に夏草図(右隻)を、抱一はさまざまな趣向を凝らしながら完成させたのです。
  この屏風は1974(昭和49)年に表裏切りはなされ、別々の屏風に改装されました。その2年前、東京国立博物館での大規模な『琳派展』でこの作品を観たときには、まだ学生でしたが、四面ガラス張りの展示ケースに、『風神雷神図』を表とする屏風の立て方で展示されていたように思います。光琳と抱一の作品を、展示ケースを何度か回りながら鑑賞した記憶があります。
  この屏風を二架の屏風に仕立て直したのは、作品をできるだけ良好に保存したいという要請からだったでしょうが、おそらく当時専門家のあいだでも、切り離すことに異存が出ただろうと思います。『夏秋草図屏風』が描かれて150年以上、この裏絵の屏風をそれほど傷つけることなく伝えてきた先人たちの努力を思うと、別仕立てにしたことに複雑な気持にならざるをえません。(しかし『夏秋草図屏風』は、なお100年以上前に描かれた光琳の『風神雷神図屏風』と比べても傷んでおり、修復のあとが目につくのも事実です。)
  ではどうして別々の屏風に分離したことに抵抗を感じるかと云いますと、ひとつには、抱一の光琳へのつよい敬慕の念と芸術家としての対抗心をふたつながら放っているこの『夏秋草図屏風』を『風神雷神図屏風』から切りはなしてしまうことによって、『夏秋草図屏風』の凛として辺りを払うような、この作品限りの張りつめた表現のその誕生の秘密をまのあたりに感じることがむずかしくなるからです。この屏風は光琳の『風神雷神図屏風』と離ればなれになっても、絵画としてのその見事な自律性はまったく損なわれることはありませんが、むしろそれ故にこそ、切り離したことに納得の行かないものを感じてしまうのです。
  もうひとつのより大きな問題は、多分お読みの方はすでに気付かれている筈ですが、この『夏秋草図屏風』の展示の仕方に関してです。抱一はあくまで光琳の『風神雷神図屏風』の裏絵としてこの作品を構想し、慎重に原寸大の加彩した下絵まで用意し、精魂をこめて、彼としてはやや異様なほどのハイテンションを持続させ、これを完成させています。抱一にとって敬愛する光琳と張り合うことにもなる特別の作品だったのです。しかも二曲一双屏風の裏絵ですから、真上からみてW字型の立て方(下方が観る側)で、表屏風とは逆の屈曲での画面のみえ方を大前提に作画したにちがいありません。これは抱一としてもむずかしい、それゆえに挑戦しがいのある屏風絵だったでしょう。
  この『夏秋草図屏風』は人気も高く、割合みる機会に恵まれます。最近では1999年の『特別展 金と銀-かがやきの日本美術-』(東博)以降も何度かみた記憶があります。しかし、つねに今回の『大琳派展』と同様に、屏風一般のM字型(“M字”は“W字”以上に極端な表記ですが)に立てて展示されてきました。この屏風の前で、分離前の裏絵だったときの画像のみえ方を頭のなかで無理に操作しながら眺めたこともありました。
  今回この文章を書こうと思ったとき、近世絵画とくに琳派の研究者はこの屏風の展示方法について、すでに疑問を提示していると思い、いくつか読んでみました。そのなかで玉蟲敏子氏が『絵は語る 夏秋草図屏風-追憶の銀色-』(1994年刊。平凡社)で、明確にその点について指摘されています。(本書は現在までのところ、抱一の当屏風を研究対象とした唯一の著作です。内容も多岐にわたって充実しており、鋭い卓見もみられ、この『夏秋草図屏風』のより深い理解と鑑賞には必読の書物です。)玉蟲氏はつぎのように言及されています。

この屏風は、裏絵であったから、本来は外側に向って折り曲げられていたとみられる。……それは、その方が奥に向って画面が、左右の隻それぞれの両端から、果てしなく広がり、見る者の視線はその銀地の彼方にあるものへと引き寄せられていくという効果があるからである。
〈36~37頁〉

  まさに指摘の通りです。現在の展示では、草花の手前の空間のみが、この屏風の両端に大きく描かれる葛と薄にゆるやかにかかえられるような穏やかな広がりで感じられますが、背後の銀地に空間としてのイリュージョンを覚えることはほとんどありません〔図1参照〕。逆に、外側に折り曲げられた屏風では、手前から左右、そしてそのまま斜め奥への三次元的な空間の広がりを自然に感じさせます。これは右隻の場合に、より端的です。現在の展示では、折り目の辺りの草花は奥へ引っ込みますから、上端から右上へと広がりながら流れるにわたずみとの間の遠近感はうすらぎます。逆に折り目が手前に出ると、当然なかほどの草花が手前にとび出します。にわたずみの奥から右手前への流れの遠近感も増し、それゆえに手前の草むらからにわたずみ、さらにその彼方までの銀地上の奥行きと広がりがあらわれてきます〔図2参照〕。

fig01.JPG
〔図1:現在の展示(改装後。M字型)〕


fig02.JPG
〔図2:裏屏風として展示された状態(改装前。W字型)〕

  要するに六曲や四曲と比べて、とくに二曲一双でのM字型とW字型とのちがいには歴然たるものがあります。W字型は、一般の屏風ではありえませんが、屏風の裏絵としては一種の逆遠近法的な視界のひろがり、すなわち両端の空間がとくに斜め奥の方向へと深く広がってみえるという独特のパースペクティヴを感じさせる特質をもっています。それを抱一は実に見事に画面構成に生かして作画しているように思われます。

  『大琳派展-継承と変奏-』に寄せて[その1]では、尾形光琳の『燕子花図屏風』の展示位置があまりに高すぎることを指摘しました。今回は、酒井抱一の『夏秋草図屏風』の展示方法を変更すべきだと、ながながと書いてきました。この二曲一双屏風の折りを逆にした展示であらためて鑑賞してみたいのです。(改装時に、逆向きの展示も可能なつくりにしているのではと思います。)今回はできないと云うのなら、カラー写真を貼った小さめの屏風状のもので、本来の立ち姿をみせて下さい。来館者も興味深くながめ、両者を比較し、あらたに学ぶこともある筈です。それもチョットと云うのでしたら、せめて作品横の解説でその点にも言及してほしいと思います。東京国立博物館に検討をもとめます。

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  最後に、酒井抱一のもうひとつの傑作と云っていい『月に秋草図屏風』(六曲一隻。縦139.5cm、横307.2cm。ペンタックス株式会社蔵)についてひとこと。
  この作品の製作年代は、『夏秋草図屏風』がおそらく抱一60歳の1821(文政4)年なのに対し、はっきりしていません。ほぼ同時期だろうと落款・印章等からも推測されているようですが、私は『夏秋草図屏風』のあと、それもそんなに時間が経ってなく、多分一年以内に描いたものではと、資料的根拠などなく、思い込んでいます。
  両屏風は与える印象からも、描法的にも、構図的にも、あるいは銀地に対し金地という点からも、対極的と云えるほど隔たっています。それほどのコントラストをみせながらも、この屏風には『夏秋草図屏風』が投げかけている影というか、余韻というか、通底するものが感じられます。『夏秋草図屏風』の息苦しいほどの密度・緊迫感をはらんだ作画に、心理的にも参り、肩もずいぶん凝っただろう抱一が、より自在でのびやかで、瀟洒な作画へ踏み出そうとする姿勢が、この『月に秋草図屏風』には窺えるのではないでしょうか。繊細な感性に裏うちされた閑雅な抒情性、観る者の感情移入を拒まないロマンチシズムへの傾斜の一方で、この屏風からもやはり抱一らしいきりっとした品格が伝わってきます。『夏秋草図屏風』の呪縛から自由になるためにも(云いすぎでしょうか)、抱一はこの屏風を相当意識的に描いたのではという気がしてきます。東博の館内で『夏秋草図屏風』に魅せられながらもある緊張を強いられたあと、『月に秋草図屏風』の前に立つと、空気がやわらぎ、人々のざわめきがもとのように聞えてホッとした人もいるのではないでしょうか。

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― 追記 ―

  上記の文章を書いた翌日、東京国立博物館のホームページで、〈「重文 夏秋草図屏風 酒井抱一筆」公開〉という記事を目にしました。
  その記事によると、2006年8月から翌月にかけての平常展で、特別にこの屏風が折り目を手前にした、光琳の屏風の裏屏風であったときの本来のかたちで展示される、とありました。やはり本屏風はどちら側に折って立てても問題のない改装になっていた訳です。従来のM字型展示とのみえ方のちがいにもいくらか触れ、「ぜひ会場で抱一の意図した空間構成を確かめていただきたい」とも書かれています。
  では、どうして今回の『大琳派展』では同様の展示方法をとらなかったのでしょうか。W字型というのは屏風としてはまことに変則的な立て方ですが、それが「抱一の意図」したものなら、たとえ向いあった当初、鑑賞者に違和感を与える展示であったとしても、作品解説でその点についてふれておけば問題がないどころか、なるほどと納得される筈です。なぜ「抱一の意図」を無視した従来のM字型による展示になったのか、本展担当者の見解を是非お聞かせ下さい。

2008.10.18 さいとうたかし

その1 展示位置が高すぎる『燕子花図屏風』・・・なぜ光琳は八橋を描き入れなかったのか [大琳派展]

 「尾形光琳生誕350周年記念」と銘打って、10月7日から東京国立博物館で、琳派の大規模な展覧会が開かれています。(11月16日までの開期中、一部展示替えがあります。)
  先日観てきました。気になったことが幾つかありましたが、今回は屏風作品の展示の高さ、とくに尾形光琳(1658~1716)の著名な『燕子花図屏風』の展示位置につよい違和感を覚えましたので、それについて書くことにします。
  宗達―光琳派を代表する六人の画業を一堂にみせるということになれば(本阿弥光悦を除いて)、当然屏風絵は最重要の位置を占めるといってよいでしょう。現代の美術館・博物館で、ガラス越しに屏風絵を展示する際、観る人と同じ床面に並べることは、展示スペースの当初のつくりから云っても不可能な場合が多いようです。この『大琳派展』でも、入場者の鑑賞しやすさを考えてでしょう、かなりの高さに展示しています。こういう見方に慣れてしまった私にも、今回例外的と云っていいほど、ひどく抵抗を感じた展示が光琳の代表作『燕子花図屏風』(六曲一双。各縦150.9cm、横338.8cm。根津美術館蔵)でした。実際に測ったわけではありませんが、床面から80~90cm上げて両隻並べられていました。
  作品前が混雑しても、鑑賞しやすくするという東博の配慮はむろん想像出来ます。しかし、とくに当作品は観る人の目の高さが重要で、尾形光琳もそのことをつよく意識して描いていると思われますから(以下に詳述)、できることなら博物館に展示位置の検討を求めたいところです。(展示期間は10月19日まで。)

kakitsubata6.JPG
〈尾形光琳作『燕子花図屏風』/写真上:右隻、写真下:左隻/参考:サルヴァスタイル美術館〉
 

  当屏風は全面にわたる金地に、咲きほこる燕子花を群青・緑青で、しかもパターンの繰り返しの手法も用いながら、両隻にわたって鮮やかに展開させています。まず右隻(向って右)は、M字型に近い燕子花の群落の配列が、屏風を立てたときの屈曲のなかで微妙な遠近感をみせながら、左隻の燕子花よりも離れた位置に、ゆるやかな左さがりのリズムで描かれています。光琳の視点は低めで、やや俯瞰気味ながら水平に近いものです。
  それに対して、左隻には燕子花群落の画面上の布置にきわだった違いがあります。群落は右隻よりずっと手前に、そして下方に並んでいます。それゆえ燕子花の茎やとくに葉が(一部は花そのものも)、屏風の下端でトリミングされ描かれていません。画家の視点は高く、左隻の群落と同一の空間に、しかも近接して設定されています。画家自身左隻の空間に、ほとんど入っていると云ってもよいでしょう。右隻のように、画家と対象空間とに一定の距離を置いて眺めるようには描いていません。ということは、俯瞰的なアングルで眼前に描かれた金地と実物大と云っていい群落がつくり出す左隻の空間構成に、この作品鑑賞の重要な基点が設定されているようです。なお、左隻から右隻への群落のつらなりも、デリケートな配置で表現されています。そして右隻の右から第三扇の下端では、燕子花の葉身の水面からの出ぎわが、画面下端スレスレに描かれるという布置もみのがせません。
  この『燕子花図屏風』は、『伊勢物語』第九段の「三河国八橋といふ所にいたりぬ」の有名な場面をモチーフとして、八橋を省いて表現したものと一般に解されています。(これに対する異説もあります。)光琳自身、後年燕子花の群落に八橋を対角線状に配した『八橋図屏風』(六曲一双。メトロポリタン美術館蔵)も残しています。
  もうお分りの方もいらっしゃると思いますが、この『燕子花図屏風』には八橋が省かれているのではなく、八橋のうちのひとつは左隻のその下に架けられていて、光琳はそこに立って本図を描いているという設定になっていると考えられます。ここにも光琳の空間構成上のユニークな趣向が隠されていると云っていいでしょう。
  ということは私たち鑑賞者も、八橋の上から、「水ゆく河のくもでなれば……」(『伊勢物語』)の景観を金地上に思い描きながら、作品と対することにもなります。八橋は左隻の手前下方にあって、私たちはそこに立ち、つぎの橋が右隻のその下方にも続き、屈曲した橋を歩みながら両隻の景観の変化を楽しむという趣向もうかがわれるのではないでしょうか。(とすれば、左隻の視覚上の基点うんぬんとは云っても、この作品の前を私たちが静かに歩み始めれば、どこで立ち止まろうとかまわない訳です。)
  要するに、やや俯瞰的に鑑賞すべき画面構成で描かれた本作品を、80cm以上高く展示して鑑賞させるということは、とりわけ左隻の群落を見上げるに近いアングルとなり、印象が異なってしまうというよりは、この作品のもつ視覚的・心理的リアリティを大きく歪めかねない鑑賞を強いることになってしまうでしょう。
  10年ほど前でしたか、所蔵元の根津美術館で当作品をみたとき、この作品の魅力がいままでにないインパクトで伝わってきたことを覚えています。照明もほど良かったのでしょうが、今から思うとこの屏風が床面にかなり近く展示されていて、立ってときにしゃがんでもみることができたのも大きかったのだと思います。
  この『燕子花図屏風』には、これまでに何度も対面していますが、最近感受性の衰えを感じながらも、ときには上述のような刺激を受けることもあり、ながながと書いてしまいました。すでに研究者が基本的に指摘されていることかもしれません。御教示いただければ幸いです。

2008.10.11 さいとうたかし

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