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その1 展示位置が高すぎる『燕子花図屏風』・・・なぜ光琳は八橋を描き入れなかったのか [大琳派展]

 「尾形光琳生誕350周年記念」と銘打って、10月7日から東京国立博物館で、琳派の大規模な展覧会が開かれています。(11月16日までの開期中、一部展示替えがあります。)
  先日観てきました。気になったことが幾つかありましたが、今回は屏風作品の展示の高さ、とくに尾形光琳(1658~1716)の著名な『燕子花図屏風』の展示位置につよい違和感を覚えましたので、それについて書くことにします。
  宗達―光琳派を代表する六人の画業を一堂にみせるということになれば(本阿弥光悦を除いて)、当然屏風絵は最重要の位置を占めるといってよいでしょう。現代の美術館・博物館で、ガラス越しに屏風絵を展示する際、観る人と同じ床面に並べることは、展示スペースの当初のつくりから云っても不可能な場合が多いようです。この『大琳派展』でも、入場者の鑑賞しやすさを考えてでしょう、かなりの高さに展示しています。こういう見方に慣れてしまった私にも、今回例外的と云っていいほど、ひどく抵抗を感じた展示が光琳の代表作『燕子花図屏風』(六曲一双。各縦150.9cm、横338.8cm。根津美術館蔵)でした。実際に測ったわけではありませんが、床面から80~90cm上げて両隻並べられていました。
  作品前が混雑しても、鑑賞しやすくするという東博の配慮はむろん想像出来ます。しかし、とくに当作品は観る人の目の高さが重要で、尾形光琳もそのことをつよく意識して描いていると思われますから(以下に詳述)、できることなら博物館に展示位置の検討を求めたいところです。(展示期間は10月19日まで。)

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〈尾形光琳作『燕子花図屏風』/写真上:右隻、写真下:左隻/参考:サルヴァスタイル美術館〉
 

  当屏風は全面にわたる金地に、咲きほこる燕子花を群青・緑青で、しかもパターンの繰り返しの手法も用いながら、両隻にわたって鮮やかに展開させています。まず右隻(向って右)は、M字型に近い燕子花の群落の配列が、屏風を立てたときの屈曲のなかで微妙な遠近感をみせながら、左隻の燕子花よりも離れた位置に、ゆるやかな左さがりのリズムで描かれています。光琳の視点は低めで、やや俯瞰気味ながら水平に近いものです。
  それに対して、左隻には燕子花群落の画面上の布置にきわだった違いがあります。群落は右隻よりずっと手前に、そして下方に並んでいます。それゆえ燕子花の茎やとくに葉が(一部は花そのものも)、屏風の下端でトリミングされ描かれていません。画家の視点は高く、左隻の群落と同一の空間に、しかも近接して設定されています。画家自身左隻の空間に、ほとんど入っていると云ってもよいでしょう。右隻のように、画家と対象空間とに一定の距離を置いて眺めるようには描いていません。ということは、俯瞰的なアングルで眼前に描かれた金地と実物大と云っていい群落がつくり出す左隻の空間構成に、この作品鑑賞の重要な基点が設定されているようです。なお、左隻から右隻への群落のつらなりも、デリケートな配置で表現されています。そして右隻の右から第三扇の下端では、燕子花の葉身の水面からの出ぎわが、画面下端スレスレに描かれるという布置もみのがせません。
  この『燕子花図屏風』は、『伊勢物語』第九段の「三河国八橋といふ所にいたりぬ」の有名な場面をモチーフとして、八橋を省いて表現したものと一般に解されています。(これに対する異説もあります。)光琳自身、後年燕子花の群落に八橋を対角線状に配した『八橋図屏風』(六曲一双。メトロポリタン美術館蔵)も残しています。
  もうお分りの方もいらっしゃると思いますが、この『燕子花図屏風』には八橋が省かれているのではなく、八橋のうちのひとつは左隻のその下に架けられていて、光琳はそこに立って本図を描いているという設定になっていると考えられます。ここにも光琳の空間構成上のユニークな趣向が隠されていると云っていいでしょう。
  ということは私たち鑑賞者も、八橋の上から、「水ゆく河のくもでなれば……」(『伊勢物語』)の景観を金地上に思い描きながら、作品と対することにもなります。八橋は左隻の手前下方にあって、私たちはそこに立ち、つぎの橋が右隻のその下方にも続き、屈曲した橋を歩みながら両隻の景観の変化を楽しむという趣向もうかがわれるのではないでしょうか。(とすれば、左隻の視覚上の基点うんぬんとは云っても、この作品の前を私たちが静かに歩み始めれば、どこで立ち止まろうとかまわない訳です。)
  要するに、やや俯瞰的に鑑賞すべき画面構成で描かれた本作品を、80cm以上高く展示して鑑賞させるということは、とりわけ左隻の群落を見上げるに近いアングルとなり、印象が異なってしまうというよりは、この作品のもつ視覚的・心理的リアリティを大きく歪めかねない鑑賞を強いることになってしまうでしょう。
  10年ほど前でしたか、所蔵元の根津美術館で当作品をみたとき、この作品の魅力がいままでにないインパクトで伝わってきたことを覚えています。照明もほど良かったのでしょうが、今から思うとこの屏風が床面にかなり近く展示されていて、立ってときにしゃがんでもみることができたのも大きかったのだと思います。
  この『燕子花図屏風』には、これまでに何度も対面していますが、最近感受性の衰えを感じながらも、ときには上述のような刺激を受けることもあり、ながながと書いてしまいました。すでに研究者が基本的に指摘されていることかもしれません。御教示いただければ幸いです。

2008.10.11 さいとうたかし

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